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2026.06.12

月の電波を捉えた夜。島田一雄先生がつないだ宇宙と高専教育【連載】宇宙ビジョンクリエイター 五嶋 耀祥(ひな)の『宇宙人』と話そう

皆さん、こんにちは。宇宙ビジョンクリエイターの五嶋 耀祥(ひな)です。いつも本連載をお読みいただき、ありがとうございます。本連載では、宇宙ビジネスに挑む多彩なゲスト=「宇宙人」をお招きし、対話を通じて宇宙の楽しさと可能性を一緒に探っています。

今回のゲストは、東京都立航空工業高等専門学校元校長・名誉教授の島田一雄先生です。戦後の混乱期に働きながら学び、通信工学の研究者として衛星通信やGPSの黎明期に関わり、その後は高専教育の現場で、宇宙人材の育成にも尽力してきました。

手作りの受信機で月からの微弱な電波を捉えた夜、GPSの民間利用を見据えた走行実験、そして衛星設計コンテストや超小型衛星開発を通じた人材育成。島田さんの歩みをたどることは、日本の宇宙開発を支えてきた研究と教育の系譜を見つめることでもあります。今回も、対談を通じて宇宙の可能性を探っていきます。(ナビゲーター=五嶋 耀祥/文=JMPプロデューサー 長谷川浩和)

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今回のゲスト

東京都立航空工業高等専門学校 元校長 名誉教授
島田 一雄さん

東京都立大学附属工業高等学校、電気通信大学を経て、上智大学、東京大学宇宙航空研究所、東京大学工学部で教育・研究に携わる。1988年より東京都立航空工業高等専門学校教授となり、2002年に校長に就任。定年退職後は(財)日本無線協会で要職を務めた。ヒューマンネットワーク高専(HNK)や(一財)高専人会の顧問として後進支援に尽力している。研究・教育の現場を歩み続け、高専教育の価値を広く伝えてきた教育者。

聞き手

ハッピー・ファム合同会社 代表/社会起業家・ITコンサルタント
五嶋 耀祥(ひな)さん

北海道苫小牧市出身。苫小牧工業高等専門学校で情報工学と電子生産システム工学を学び、卒業後はシステムエンジニアとしてビッグデータ解析や業務システムの構築に従事。その後、大学事務職や子育てを経て、2015年にNPO北海道ネウボラを設立し地域支援を開始。2019年にハッピー・ファム合同会社を設立し、DX推進・IT教育・宇宙産業支援・女性や親子支援など多分野で活動。2021年には一般社団法人ファミリー支援INV協会を創設し代表理事を務める。ITと福祉、教育を横断するソーシャルビジネスの担い手として注目される。

自分の道は自分で拓く。働きながら学んだ少年の原点

五嶋 島田先生、本日はよろしくお願いいたします。先生との出会いは、私が北海道新聞のお正月連載で取り上げられた記事を、SNSで見つけてくださったことがきっかけでした。そこから大きなご縁へとつながりましたね。

島田 そうでしたね。五嶋さんの多分野にわたる活動を拝見し、ぜひお話を伺いたいと思いました。そこで、私が主宰する全国の高専OB・OGのネットワーク「ヒューマンネットワーク高専(HNK)」の月例会で、講演をお願いしました。月例会は2020年に始めて、これまでに60回ほど続けています。

五嶋 その節は大変光栄な機会をいただき、ありがとうございました。HNKの月例会では、子育て支援、衛星データの活用、高専女子の可能性などをテーマに、3回講演させていただきました。60回にわたり月例会を続けてこられた先生の行動力には、本当に頭が下がります。

島田 五嶋さんにはオンライン講演だけでなく、石川県でのHNK全国高専交流会で司会進行まで務めていただきました。分野を横断して活躍される姿を見て、高専OGを代表する存在だと感じています。

五嶋 ありがとうございます。今回は、島田先生の歩みとエネルギーの源泉を、幼少期から伺っていきたいと思います。まずは、お生まれやご家庭について教えてください。

島田 私は昭和15年に神田で生まれました。父は革鞄の職人で、天皇陛下の鞄や皇族の方々のハンドバッグも手がけるほどの名人でした。浅草橋の近くで職人を雇い、手広く商いをしていたそうです。ところが東京大空襲で焼け出され、父の実家がある品川へ移ることになりました。戦後はビニール製品が普及し、高級な革鞄の需要が大きく減り、名人と呼ばれる技術も発揮できず、収入も思うに任せない中で、父が苦労している姿を目にしていました。子どもながらに、戦争を境に、時代の変化に左右されてしまった父の無念を強く感じていました。

  
1943(昭和18)年、軍国幼児だった3歳の頃の島田さんと友だち(写真左)、1947(昭和22)年、小学校入学時の記念写真。後列第2段右端が島田さん。終戦直後で前列に裸足の仲間、藁草履の仲間がいる

五嶋 時代の大きな変化を、ご家族で受け止めてこられたのですね。その中で、学びへの関心はどのように育まれていったのでしょうか。

島田 中学卒業時の成績は学年で一番で、城南地区のアチーブメントテストでも上位でした。ただ、家計に余裕がなく、私は就職するつもりでいました。すると野球部の顧問の先生が、「教員有志で学費を出すから日比谷高校へ行き、東大を目指せ」と勧めてくださったのです。

  
1954(昭和29)年、家でくつろぐ島田さん(写真左)、1955(昭和30)年、修学旅行時の写真。上段右から8人目が島田さん(写真右)

五嶋 先生の才能を見込んでの、お申し出だったのですね。

島田 ええ、本当にありがたいお話でした。ただ私は、親に相談する前に「自分のことは自分でやります」とお断りしてしまったのです。今思えばもったいないことをしたのかもしれません。それでも、その決断があったからこそ、違う人生を歩むことになり、今日こうして五嶋さんともお会いできているのだと思います。

五嶋 あえてご自身の力で道を切り拓くという、強い自立心と決断力があったのですね。その後はどのような進路を選ばれたのですか。

島田 「自分のことは自分でやる」と決めた以上、昼は働き、夜に学べばいいと考えました。大崎にあった明電舎に、城南地区の成績優秀な仲間とともに養成工、いわば都内版の「金の卵」として入社しました。1年間は午前中に勉強し、午後は指定された職場で働きました。そして夜は、現在の都立産業技術高専品川キャンパスの前身にあたる、都立大学附属工業高校の夜間部に通いました。パンをかじりながら、4年間通い続けたのです。

1956(昭和31)年、明電舎に養成工として入社。午前中授業・午後配線工の日々

五嶋 働きながら学ぶ日々を経て、大学を目指すことになるのですね。どのような心境の変化があったのでしょうか。

島田 夜間高校の4年生になった時、「このまま工場で働き続けることが、本当に自分の人生なのだろうか」と考えました。もっと上の学びがあるなら、そこへ進みたい。そう思って父に相談すると、「学費は出せないが、お前が自分でやるならやればいい」と言ってくれました。嬉しかったですね。

五嶋 そこから大学受験へと挑まれたのですね。

島田 明電舎を辞め、アルバイトをしながら独学で勉強しました。予備校に通う余裕もなく、選択肢は国立大学のみ。二浪の末、電気通信大学に合格しました。大学でも懸命に学び、クラスで一番の成績を収めましたが、卒業時には26歳になっていました。

  
1962(昭和37)年、電気通信大学入学(写真左)。1965(昭和40)年、電気回路卒研室にて(写真右)

五嶋 卒業時の年齢や、その後のキャリアについて、不安を感じることはありませんでしたか。

島田 ありました。企業の推薦も受けられましたが、26歳で新卒として入社することには迷いがありました。それなら教育や研究の世界へ進もうと考えたのです。母校の助手を勧められましたが、「他人の飯を食ってから戻ってきます」と辞退しました。その後、上智大学理工学部に新設された電気電子工学科で、通信工学系の助手に採用されました。今では考えられないほど昔気質の教授の下で、非常に厳しい研究環境でしたが、「負けずに研究を続けよう」と必死に取り組み、学会に論文を投稿するなど、研究者としての土台を築いていきました。

五嶋 「自分のことは自分でやる」という先生の姿勢に、深く感銘を受けます。私も社会人として働いた後、高専の専攻科で学び直した経験があります。だからこそ、さらに上の学びを求めるお気持ちに強く共感します。

手作りの受信機が捉えた、月からの微弱な電波

五嶋 上智大学での助手時代を経て、先生の研究は宇宙の領域へとつながっていきます。当時は、どのようなテーマに取り組まれていたのでしょうか。

島田 上智大学では、当時日本で最も高い周波数帯だった50GHz帯の電波伝搬の研究に取り組んでいました。波長が雨滴と同等のわずか6mmほどなので、雨滴による散乱や吸収で電波が大きく減衰します。私は地上5kmの水平伝搬路で雨量と電波の減衰を測り、その相関を調べていました。雨粒の大きさを一つ一つ測るような地道な作業もずいぶんしました。

1966(昭和41)年、上智大学屋上で雨量計と島田さん(写真左)。地上伝搬実験受信局と島田さん(写真右)

五嶋 そうした地上伝搬路での地道な研究が、どのようにして衛星通信の研究へとつながっていったのでしょうか。

島田 ちょうど世界的に衛星通信の必要性が高まり始めた時期でした。地上の水平伝搬路ではなく、宇宙から地上へ向かう斜めの伝搬路、つまり高仰角伝搬路で、雨や大気が電波をどのように減衰させるのかを測る必要が出てきたのです。衛星通信時代に向けて、不可欠な研究でした。

五嶋 国を挙げての重要な研究課題になっていったわけですね。

島田 そうです。NHK、郵政省電波研究所(現通信総合研究所)、電電公社(現NTT)、KDD(現KDDI)が太陽電波や月・星の電波を擬似衛星として受信する研究に乗り出しました。NHKが12GHz帯、電波研は35GHz、電電公社が11・18GHz帯で太陽電波受信、KDDが30GHz帯で月・星電波受信を担う中、上智大学は未踏の50GHz帯で太陽電波受信に挑むことになりました。各機関が大手メーカーに数千万円のアンテナ・低雑音受信機を発注する中、私たちの研究室の予算は年間50万円ほど。限られた条件の中で、工夫するしかありませんでした。


1973(昭和48)年、上智大学屋上に設置した50GHz帯サントラッカー

五嶋 限られた条件を、どのように乗り越えられたのですか。

島田 知恵と行動力で補うしかありませんでした。電電公社をはじめとする研究機関や企業を回って部品を集め、50GHz帯の低雑音受信装置を手作りで組み上げました。2枚のパラボラアンテナのうち1枚を太陽に正対させ、もう1枚は3°程度オフビームさせて大気雑音をキャンセルする方式が一般的でした。私たちには地上伝搬実験で使っていた電電公社からの払い下げのパラボラアンテナ1枚しかありません。副反射鏡を取り付けてカセグレンアンテナに改造し、その副反射鏡を軸上で駆動させることでアンテナビームを切り替え、1枚のアンテナで2枚分の役割を果たす新方式も考案しました。

五嶋 まさに創意工夫の賜物ですね。その手作りの装置で、実際に宇宙からの電波を捉えることはできたのでしょうか。

島田 忘れられない夜があります。優秀な学生と二人で、連日、徹夜で手作り受信機の完成を急いでいました。ある月夜の晩、その学生が「先生、お湯で温めた無反射終端導波管からの雑音電波を捉えました!」と叫んだのです。「お、そうか、月からの電波を受けよう!」と私。急いで屋上に上がり、できたてほやほやの受信機をアンテナに取り付け、アンテナ回転台を月の方向に合わせて待ち受けていると、見事、月からの微弱な雑音電波を捉え、メーターが大きく振れました。「やったー!やったー!」と二人で喜び合いました。その学生は電電公社電気通信研究所に就職し、後に世界的な研究成果を上げています。

五嶋 月からの電波を受信された瞬間だったのですね。非常に印象的なエピソードです。

島田 あの時の嬉しさは、一生忘れられません。子どもの頃は、生きることに精いっぱいで、空を見上げて宇宙を想う余裕はありませんでした。だからこそ、月の電波を受信したあの瞬間が、私にとって宇宙への原体験になったのです。今でも月を見ると、もう一度受信機を作ってみたいと思うことがあります。なお、奇遇にも、その日の昼ごろに私の一人息子が誕生していたことを、帰宅してから知ったのでした。

五嶋 私も高専の専攻科でアンテナ工学を深く学びましたが、目に見えない電波を捉える技術の難しさは身をもって知っています。現在の衛星データや通信インフラの基盤には、先生方の情熱と試行錯誤に満ちた挑戦があったのですね。その後、東京大学宇宙航空研究所では、どのような研究をされたのでしょうか。

島田 当時米軍が試験運用を始めたばかりのGPSに着目しました。衛星数が少なく、日本から複数の衛星を捕捉できる時間も限られていた時代です。日本無線(JRC)からGPS受信機のデモ機をお借りし、定点測定だけでなく、自動車に乗せて走ってみようと考えました。

五嶋 現在のカーナビゲーションシステムにもつながる、先駆的な実験だったのですね。

島田 ハンドヘルドコンピュータPC8800と受信機をマイカーに積み込み、ルーフにはアイスキャンデー状の4線式ヘリカルアンテナを立て、修士の学生に時刻と、高速道路の路肩に設置されている距離標識の数字(基点からの距離)を読み上げてもらい、テープレコーダーに収録しながら、東京・京都間を、行きは中央高速•名神高速、帰りは名神高速•東名高速を走りました。衛星を捕捉できるのは深夜の限られた時間だけなので苦労しました。持ち帰ったデータの軌跡を高速道路の地図上にプロットすると、時間帯によっては高速道路からずれて田んぼの中を通るような誤差もありましたが、「将来、必ず車にGPS受信機が標準装備され、走行位置がこのように地図上に表示される時代が来るね!」と学生と予測していました。首都高速、関越自動車道などを含む約1,200kmに及ぶ走行実験の結果を論文として発表し、GPSの民間利用を見据えた先駆的な試みになりました。なお、その学生はGPSで博士号を取得、就職後もGPSの研究を継続していました。


1986(昭和61)年、GPS測定精度の自動車走行実験用マイカーと島田さん(東大宇宙航空研究所中庭にて)

五嶋 今やGPSは、地図アプリやカーナビを支える、生活に欠かせないインフラです。先生方の先駆的な研究が、現代の当たり前につながっているのですね。その後、航空工業高等専門学校へと活躍の場を移されたのですね。

島田 はい。1988年、航空高専に電子工学科を創設するため、主任教授としてお声がけをいただきました。ここから教育者としての新たな挑戦が始まりました。

1995(平成7)年航空高専屋上衛星通信アンテナの前で卒研生と右から2人目が島田さん

手を動かす学びが、宇宙人材の未来を育てる

五嶋 航空高専では、宇宙人材の育成にも深く関わられました。特に「衛星設計コンテスト」の立ち上げと運営には、大きな役割を果たされたそうですね。

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